In article <4A44FCCF.B8A1A5D@occn.zaq.ne.jp> karura@occn.zaq.ne.jp writes:
>さ、残りの琵琶湖絡みの話は戸田さんにお任せして、と(なんて無責任)。
名指しで召喚されるとは……

> これまた連休中に長浜に行ったときの話。目的は、慰安旅行の時に見つけ
>た長浜駅の資料館と龍遊館。
(中略)
> 関ヶ原からの東海道線延長は、最初は長浜に北(虎姫方)から進入していた
>というのも興味深い。なるほど琵琶湖の湖運主眼で大津を狙うんですから、米
>原よりも湖岸に近い場所で関ヶ原から狙いやすい所の長浜の方が合理的ですよ
>ね。
長浜駅は位置の謎も蘊蓄の1つなんですよね。
「長浜スクエア」内の駅舎や転轍器が当時のものだと言われても、
何故こんな内陸の中途半端な場所にあるのか、
地図を見ても、さっぱり解りません。
私自身、明治当時の地形(湖岸線)を「知識として」書き入れて、
やっと納得できました。

要するに、細長い長浜港の一番奥まったところに駅を配置したわけで、
その港が今では完全に埋ってしまっているものだから、
謎になってしまうんですね。

そして、当時の地形(街と城山と港との位置関係)を考えると、
当初の東海道線が長浜駅から北向きに出ていたのが
非常に合理的であったことも解ります。
尤も、これは敦賀と岐阜と両方へ分岐する構造にする必要があった
という要因もあるのですが。

当初の東海道線の敷地は、今は道路(国道365号の南半分+県道37号)に
なっていますが、現地の人は今でも「汽車道」と呼ぶそうです。
今の県知事が研究者としてこの地域の調査を始めたころに
この呼び方に遭遇し、最初のうち意味が解らなくて戸惑ったんだそうな。

                                戸田 孝@滋賀県立琵琶湖博物館
                                 toda@lbm.go.jp